2017.7.8 「殺人犯はそこにいる」(清水潔)

 「死」とは不可逆で、理不尽なものだと思う。たとえ満足した一生を送ることができ、満身創痍な老体の死であっても全員がそれに納得することはあるのだろうか。そこには必ず多かれ少なかれ理不尽さが付きまとうのではないか。理不尽というか、後悔か。

 私は、身近な人の死を二度経験している。これを多いとみなすか少ないとみなすかは自由だが、こんな経験少ない方がいいに決まってる。正確にいうと三度なのだが、その方は小学の野球のクラブチームの会長的な立ち位置で、選手とは距離があるタイプの人でいつも名前を呼び間違えられていたので今回は含めない。もちろん悲しいことには間違いない。

 二度の経験のうち、最初が高一で、隣に住んでいて小学生低学年あたりによく一緒に遊んでもらっていたおばちゃんだった。部活や勉強で忙しくなってからは挨拶しかしなくなっていた。二回目は高三の秋で、弓道部のコーチだった。部長という自分の立ち位置的にかなり話す機会はあったのだが、論理的に破綻している気分屋的な傾向のあるコーチだったので、この代では自分含め副部長などもあまりよく思っていなかった。

 このお二方の死の知らせを聞いた時、ご冥福を祈る気持ちと共に後悔、やり切れなさが湧き上がってきた。そして、死という避けられない仕組みへの怒りとでもいうようなものが生まれた。どうしようもないものなのに。近所のおばちゃんもコーチも病気を持っていた。

 

 おばちゃんとはもう少し色々なお話がしたかったと思う。小学生の時はあんなに手を焼いてくれたのだから、せめて大学に入り、立派な大人になるステップをほんのすこしでもいいから見せたかった。

 

 コーチには大学に無事合格したことを伝えたかった。部活現役の時、自分たちの代がコーチを嫌っていたのと同じぐらい、コーチからも嫌われていると思っていた。指導も一個下の代を中心にしていたし。嫌っていたのに、コーチが指導しないと不満を持つのはおかしいと今では思うが、あの時は鶏が先か卵が先か的な感覚だった。だから引退した後も弓道場に顔出すのは、この代全体が避けていた。行ったとしてもあのコーチに受験もどうせダメだろうとか嫌味言われると思ったから。

  引退した後11月に偶然再会する機会があった。学校行事として行われた講演会を聞きにきていたのだ。真っ先にコーチを発見してしまった私は、あまり見つからないように入場していた。クラスメートも周りにいる状況だったから。しかし、やっぱり当たり前に見つかった。目があった。無視するのもバツが悪い気がしたため、会釈を一応程度にした。そしたらコーチが「大学進んでるか?」と問いかけてきた。恥ずかしくなって、愛想笑いをしてその場を立ち去った。その約10日後、コーチは亡くなった。昔から冗談のように「俺は癌だから帰り道で死んでるかもなー。明日来れないなー。」と言っていた。翌日必ずと言っていいほどコーチは来ていた。だから死なないと思っていた。明日も明後日もいつもの調子で厳しいこと言われるんだと思っていた。亡くなったという一方が届いた時、真っ先に頭の中に浮かんだのが「大学進んでるか?」という言葉。あの時は、意味わかんないなーで片付けていた言葉。亡くなってから気づいた。あんな嫌っていたのに、嫌っていたはずなのに、自分のことを心配してくれていたということ。自分で勝手に嫌味を言われると思っていた、思い込んでいた。部活ではうまくいかなかったけど、背中を押してくれていた。そのことに気づかず、幼稚な対応をしてしまった自分に腹がたつ。でもその後悔はもうどこに行ってくれるわけでもなく、自分の中に居続ける。だって、もうあの方はもう存在していないから。会えないから。「無事合格しました!」の知らせを伝えられない。応援してくれていたことに気づかず、あの方との関係は終わってしまった。

 

 こうやっていつも終わってから気づく。失ってからその大切さに気づく。

 

 「死」とはそういうものだ。人間愚かだが、そういう運命なんだと思う。今回の本「殺人犯はそこにいる」に描かれていることは全て事実である。実際に起きたことである。北関東連続幼女誘拐殺人事件。親の元から離れた一瞬が狙われ、五人の少女が誘拐された。そのうち4人は遺体として発見され、一人は未だに行方不明である。5つの事件のうち、3つはパチンコ店で起きている。親が一緒に子供を連れて自らが娯楽にふけっている間に起きたのだ。

 被害者のご冥福をお祈りする。悔やんでも悔やみきれない。遺族の親御さんは、なぜあんなことをしてしまったんだと思っている。何事もなかったら「パチンコ楽しかった」で終わったことだが、愛する娘を失って、自らの行動を悔いる。ただ、この行動は誰にも責めることができない。責めるなら犯人を責める他ない。子どもの行動を全て監視することなど不可能だ。

 

 この本の著者である、清水潔氏も娘を失っている。交通事故という点で若干の違いはあるが、遺族に近い立ち位置である。彼は日本テレビの社会部の記者であり、この事件の犯人を許すことができないというただ一点の想いでこの事件に取り組んでいる。記者の範疇を超えてまでも解決しようともがいている。この生き様が半端じゃない。私が今まで想像してきたような正義感を超えたところで動いている。 

 そして、著者のその正義感が文面からありありと伝わってくる。一見素人の目からすれば、とっかかりのないように思える事件だが、泥臭く事件の真相に迫っていく姿はまさにヒーローだ。読者は、戦隊モノで悪者を倒すヒーローを応援するかのごとく、勧善懲悪の世界に入り込んで行く。

 

 P45にこのような記述がある。

 私はその資料を開くと、その意味するところに気づき、固まった。メディアも司法関係者もほとんど誰も注目してこなかった事実のようだった。(中略)

 そこから立ち上がるのは一人の男の影-ある「推論」が私の脳を直撃する。

(P45 第一章 動機より)

  「いいぞー!誰だその男は!ゾクゾクしてくるミステリーだなー。著者よ、早くその答えを教えてくれ。」

 そう思った次の瞬間、ふと気づく。これはノンフィクションでミステリーなんかじゃない、と。実際に5人の少女が被害に遭っているのだ、と。

 

 この本は読んでいて気持ちのよい結末を迎えるわけでもない、この人の取材ルポのようなものだ。小説の方が爽快な読後感があるだろう。しかし、この本には知らなければならない事実が書いてある。小説の持つカタルシスよりも大事なものがある。

 司法の持つ不合理さは何度か本などを通して触れたことがあったため、この本から目新しいことを学ぶことはなかったが、それでも本来救ってくれるはずの存在に見捨てられる現実は目を背けたいほどだ。特にこのケースだとそれが顕著であった。

 この本は、警察や裁判所とは逆の立場から書かれており、かなり痛快で、読者に対して、それらへの怒りを覚えさせるものである。。しかしこれが全て正しいとも限らない。一方的な視点から書かれているからだ。読む者も試されている気がする。この本を読んで、実際に起きている事実、著者の生き様に触れることができてよかったと思っている。

 

 

 すごい距離の近い人の「死」にはまだ直面したことがない。そんなの一生経験したくない。どんな思いをするかも経験したくないし、想像もしたくない。その人を失ってもう二度とこの世で会えなくなって、もっとあんなことしたかったな、あのこと話したかったなとか思うのだろうか。そんなの嫌だ。どうしようもないことなのに。

 ときどき「幸せ」ってなんだろうって思う。死の逆の概念の幸せって何だかわからない。でもそれって、幸せだからわかんないのかもしれない。幸せを失った時に、幸せの大切さに気づく。そうだとしたら、今、僕はあいにく幸せだ。